  河井登喜夫は大正12年、広島県尾道市で生まれた。まもなく東京・杉並に移り住み、日大二中に進学した。飛行機に魅せられていったのはこの時だった。友人と一緒に航空隊基地に出掛け、機体をスケッチしたり、時には基地内に忍び込む冒険もし、飛行機熱にうなされていった。 |
また、当時の航空雑誌「空」に創作飛行機の投稿を続け、毎号のように紙面を飾った。しかし、時代の暗雲は、飛行機少年にも襲いかかった。開戦の翌年、日大に進学し、学業途中で学徒出陣の招集がかかった。その後の海軍艦艇模型に夢中になる姿から当然、海軍と想像されるが、実は陸軍の近衛連隊に配属された。
彼の創作飛行機は部隊でも有名だった。あるとき米軍の機影識別のテストを士官級の人に混じって部隊から選抜されて受けることになった。結果は満点だった。そこでは機体の研究と米軍機の模型を作る仕事が待ち受けていた。
これまでの創作飛行機のスケッチから、理論とモデルの研究へと、結果的に飛行機熱は止まるところを知らなかった。そして、突然の敗戦を迎えた。

戦後になって、大学を卒業後、金融機関に勤務した。誠実な仕事ぶりは優良顧客の開拓に力を発揮した。 昭和21年、ノブさんと結婚、一女一男に恵まれた。その間、趣味は汽船や飛行機の模型づくりの厳格な「お父さん」であり、有能な銀行マンとして約20年の歳月が流れた。
しかし、昭和42年、人生の転機を迎える決定的な一枚の写真と出会った。模型専門誌「モデルアート」に掲載された軍艦模型だった。有給休暇をとって大阪まで、製作者の亀井新さんに会いに行った。心の鼓動を押さえることができなかった。20年の助走エネルギーが、爆発する瞬間だった。翌年には日本海軍艦艇模型保存会を作り、仲間と軍艦論議に耽っていった。
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また、そのころ人生の大きな転機を迎えた。父の死に遭遇、勤務先を退職し、教育者だった父の後を継いで、学校法人豊昭学園の理事長に就任した。サラリーマン生活の制約から解き放されて、艦艇模型に没頭できる舞台が用意された。一方で新東京科研工業株式会社を昭和50年に設立、また有限会社東研工業をも軌道に乗せた。これで艦艇模型の製作・研究と事業経営という車の両輪が完成、怒涛の勢いで、「艦艇模型の製作と研究シリーズ」の単行本出版を相次いで完成させた。
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  私財を投げ打ち、艦艇模型に全身全霊打ち込む彼の姿に、全国の仲間から尊敬と信頼の輪が広がった。尊敬を集めたひとつの理由は、彼の模型に取り組むテンションの高さにあった。「これでいいだろう」という安易な妥協はなく、容易に満足しない姿勢は周囲を圧倒した。
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さらに、実物そっくりを求めるマニアの領域を越えて、色彩や細部にこだわることなく表現としての「模型の世界」を求める姿勢は、新しく発見された資料や知識を惜しみなく次ぎの作品に反映させてった。また、ベールに包まれた謎に挑戦し、大胆な仮説を検証していく姿も人々を魅了した。設計図面や写真・映像が乏しい戦艦大和の謎に挑戦し、その空白を埋める史料的価値の高い作品を数多く発表し、歴史研究や軍事研究の分野に衝撃を与えた。その一つである、「船の科学館」に寄贈された50分の1の「戦艦大和」は、模型の枠をはるかに越えた芸術作品としての金字塔を打ち立て、世界は彼を、艦艇模型の第一人者として注目した。謎多き戦艦大和。結果として十数隻の作品を作ることになった。30年の模型生涯の内、一作品一年と計算しても半分が、この謎の絶世美女に費やされたことになる。 (河井登喜夫の作品集はこちらヘどうぞ)
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艦艇模型への情熱の30年、世界に類することのない10分の1スケールの戦艦大和。その夢途中の断念は、さぞ無念だったろう。しかし、情熱に忠実に生きることの素晴らしさを教えてくれた。また、情熱が刻む歴史の功績に私たちは勇気付けられる。製作途上の10分の1戦艦大和は仲間の手によって受け継がれるようになった。完成に向けた、ご子息の呼びかけで、同好の士である坂上、武藤忠春、尾池廣之の三氏は「10分の1戦艦大和製作委員会」を発足させ、2004年の完成を目指すことになった。永遠の模型少年、河井登喜夫が世界に投じた熱い思いは世代を超えて受け継がれていく。
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